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「……嘘だろ」
毎朝の習慣である洗面所の鏡拭きを終えた瞬間、俺——いや、俺だったはずの存在は、その場に崩れ落ちそうになった。
鏡の中に映っていたのは、寝癖のついた冴えない男子高校生の姿ではない。
透き通るような白い肌、サラサラと肩に流れる艶やかな黒髪、そしてどこか儚げで、同性でも見とれてしまいそうな……文句なしの超絶美少女だった。
パジャマの胸元はスカスカで、ズボンはゆるゆる。
自分の手を胸に当ててみる。
柔らかい感触。
下に視線を落としてみる。
……あったはずの「相棒」が、きれいさっぱり消滅している。
「は……? え、夢? 夢だよな!?」
頬を抓ってみる。
痛い。
めちゃくちゃ痛い。
パニックになりながら自分の声を出すと、「ひゃいっ!?」と鈴を転がすような可憐な高音が洗面所に響いた。
理解が追いつかない。
昨日まで俺は、ごく普通の男子高校生・白石 疾風(しらいし はやて)だったはずだ。
それが一夜明けただけで、なぜか性別が反転し、誰もが振り返るレベルの美少女に化けてしまっていた。
慌ててスマホを開き、鏡の自分と画面を交互に見比べる。
熱もなければ変な病気の兆候もない。
だが、現実は残酷(あるいは奇跡的)に俺の身体を「女子」へと作り替えていた。
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——そして、この破天荒な出来事から三日後。
諸々の手続き(親への必死の説得と、親戚の女子として転校扱いにするという超展開)を経て、俺は元の高校へ「転校生」として通うことになった。
名前は『白石 美羽(みう)』。
「海外帰りの従姉妹」という突如生み出された無茶な設定を引っさげ、俺は女子制服のスカートの心細さに震えながら、教室の扉を開けたのだ。
(落ち着け、俺。元が男だってバレたら即終了だ。静かに、地味に、影薄く高校生活をやり過ごして、元に戻る方法を探すんだ……!)
そう心に誓っていた、まさにその日の放課後。
誰もいない夕暮れの校舎裏。
俺の目の前には、一人の少女が立っていた。
神崎 瑠璃(かんざき るり)。
我が校が誇る、高嶺の花にして完璧無比な超絶美少女。
そして何より——俺が男子だった頃から、ずっと遠くから密かに憧れ続けていた『推し』その人である。
銀縁の眼鏡の奥で、氷のように冷ややかだと恐れられている美しい瞳が、夕日に照らされて揺れていた。
いつもクールで感情を表に出さない彼女が、なぜか胸の前でギュッと手を握り締め、真っ赤な顔で俺を見つめている。
(な、なんで神崎さんが俺……じゃなくて、転校生(女子)の私を呼び出したんだ? もしかして、偽装がバレて詰問される……!?)
生きた心地がせず、ゴクリと唾を呑み込む俺。
そんな俺に対して、彼女は震える声を振り絞るように、ハッキリとこう言ったのだ。
「あの……白石さん」
「は、はいっ!?」
「私……入学した時から、ずっと誰のことも好きになったことがなかったの。でも、今日教室に入ってきたあなたを見た瞬間……胸がキュッとなって、目が離せなくなって……」
「……え?」
「私……あなたのことが、一目惚れするくらい大好きです! 私と、お付き合いしていただけませんか!?」
言葉の意味を脳が処理するまでに、丸々十秒かかった。
……はい?
ちょっと待ってくれ。
俺が「男子」として二年間、どれだけ視線を送っても一度も目が合わなかったあの神崎さんが?
学園一のクールビューティーと恐れられ、男子からの告白を100%の確率で秒殺してきたあの推しが?
女子になった途端、俺に一目惚れして告白してきたんだが……!?
夕暮れの風が、ふわりとスカートの裾を揺らす。
鏡の中の美少女(自分)と、目の前で耳まで真っ赤にしている推し(ヒロイン)。
こうして、俺の「女子高校生としての第二の人生」と、「大好きな推しからの猛アタックに悶絶する日々」が、最悪かつ最高の形で幕を開けたのだった。
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「——で、どこをどう見ても、お前は今日から我が家の自慢の末娘、美羽ちゃんなわけだな」
朝の薄明かりが差し込むダイニングルーム。
トーストをかじりながら、我が家の父親——白石 健次郎(しらいし けんじろう)が、新聞のスポーツ欄からわずかに視線を動かして俺を一瞥した。
その目は、昨日まで息子だったはずの存在を見る目ではなく、テレビの向こうの天気予報でも見るかのような、完全に大気圏外へ漂う「空気」のそれだった。
「お父さん、ちょっと! 美羽に向かってそんな変な言い方しないでよ! せっかく昨日、一生懸命お姉ちゃんが可愛いリボンの結び方を教えてあげたっていうのに!」
すかさず声を荒げたのは、我が家の第一子にしてファッション誌を毎月購読する大学二年生の姉・白石 綾乃(あやの)だ。
彼女は今、自分のことのように目を輝かせ、目の前に座る「美羽」——つまり俺の姿を上から下まで舐め回すように観察している。
「いいじゃないの、お父さんは。ねえ、美羽? 昨日の夜、お姉ちゃんと一緒にお風呂に入った時、肌のモチモチ具合に感動しちゃったんだけど、いったいどんな化粧水使ってるわけ? あ、教えなくていいか、私が全部プロデュースしてあげるから!」
「ちょ、お姉ちゃん、近い近い! 泡立てネットの使い方なら昨日マスターしたから大丈夫だってば……って、声! また裏返った! これじゃ男だってすぐバレるだろ……!」
「あはは! 美羽ちゃん、そんな高い声を出さなくても可愛いから大丈夫よ〜。ねえ、お母さん、この子本当にかわいい。私が産んだ子だけど、神様が最高傑作を間違えてうちの戸籍に放り込んだとしか思えないわ!」
頭上で母親が嬉し涙を拭う真似をしながら、俺のサラサラとした黒髪をこれでもかとブラシで梳いていく。
鏡を見た時のショックから立ち直り、どうにか現実を受け入れざるを得なくなった俺——白石 疾風(改め、美羽)は、朝からこの女三人(母、姉、そして「中身」を忘れた肉体)の圧倒的な熱量に押し潰されかけていた。
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昨日の今日だ。
「息子が突然、アメリカの超名門ボーディングスクールに特待生として留学することになった。代わりに、遠い親戚の美少女・美羽ちゃんが我が家に居候することになった」という、親戚一同を巻き込んだ壮大かつ強引な設定の裏工作が、両親の政治力(主に母の脅し文句)によって夜を徹して完了させられていた。
ご近所さんや学校への連絡も、「疾風は急な留学でバタバタと発った。代わりに、身寄りのない従妹の美羽ちゃんを預かることになったの」というシナリオで統一済みだ。
つまり、この家は昨日までと変わらず「俺の家」なのだが、そこでの立ち位置だけが「息子」から「居候の美少女(従妹)」へと一八〇度すり替わってしまったのである。
「ほら、美羽ちゃん、じっとして! 前髪の分け目がちょっと右に寄ってるわ。この絶妙なシースルーバングが、今時の男子……じゃなくて、女子高生のモテの命綱なんだから!」
「お母さん、それさっきから何回目だよ……。学校に遅刻するって。ていうか、本当に神崎さんが迎えに来るのかよ。昨日、あんな劇的な告白をされて、今日からいきなり一緒に登校とか、心臓のキャパシティが全壊するんだけど!」
「あら、いいじゃない。あの子、神崎家の凛ちゃんでしょ? お父さんも昔、あそこのお父さんと仕事で一緒になったことがあるけど、おとなしくて品行方正ですごいお嬢さんだって評判だったわよ。そんな子がわざわざうちの美羽ちゃんを迎えに来てくれるなんて、お母さん感激しちゃう。青春ねえ……」
母は満足げにうっとりとした表情を浮かべる。
——いや、違うんだよお母さん。その「品行方正なお嬢さん」は昨日、俺(中身・元男子)に対して顔を真っ赤にして「一目惚れした」と人生最大級の愛の告白をキメてきた爆弾なのだ。
そんな危険人物と朝から密室(通学路)で二人きりになるとか、ちょっとした拷問に近い。
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「ほら、朝ご飯のホットサンド食べるわよ! 早くしないと、せっかくお姉ちゃんが昨日焼いた自家製パウンドケーキが泣いちゃうから!」
「姉貴、それ昨日から三回目……ていうか、重い! 朝から糖分過多で胃もたれする!」
「いいの! 女子はね、朝から甘いものを優雅に嗜む生き物なの! ほら、あーんしてあげるから口開けなさい!」
「自分で食えるわっ!」
相変わらずの賑やかすぎる家族のやり取りを横目に、父親だけが新聞のページをめくる音をカサリと響かせながら、ボソッと呟いた。
「……まあ、息子の時は無口で仏頂面だったから、こうして華やかな女の子が食卓にいると、居間が明るくなっていいもんだな」
「お父さん、それ聞こえてますからね!? 俺は今までどんな顔して生きてたんだよ!」
「ふっ、我が家の新しいアイドル、美羽ちゃんの健闘を祈る」
「空気のくせにいいとこ取りすんな!」
やれやれ、とばかりに肩を落としたその瞬間。
『ピンポーン』
玄関のインターホンが、静かな住宅街の朝の空気を切り裂くように鳴り響いた。
「「「あっ……!」」」
ダイニングの空気が一瞬で凍りつく。
母と姉は目を見合わせ、次にスローモーションのようにピキピキと首を曲げて、俺を振り返った。
「き、来たわよ、美羽ちゃん……! 神崎さんよ!」
「うそ、早くない!? まだ髪の最終チェックが……!」
「お母さん、玄関の鍵開けてくる! 凛ちゃーん、いらっしゃい、今開けるわね—!」
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我が家の女性陣の機動力が異常に高い。
ガチャリ、と玄関の扉が開く音がして、続いて上品で澄んだ、聞き覚えのある声がリビングまで響いてきた。
「おはようございます……。白石さんのお宅で、間違いないでしょうか。あの、昨日お約束した……美羽さんを、お迎えに上がりました」
——来た。
心臓がバクバクと暴れ回り、喉元までせり上がってくる。
俺は慌てて制服のスカートの裾を引っ張り、椅子から立ち上がった。
チェックのプリーツスカートが膝上を少し揺らし、慣れないローファーの感触が足元から伝わってくる。
「凛ちゃん、いらっしゃい! もう、わざわざ迎えに来てくれるなんて、美羽も幸せ者ねえ。さあ、中に入って入って!」
「あ、ありがとうございます……失礼します」
母に案内され、リビングの入り口にスッと姿を現したその少女は、やはり今日も息を呑むほど美しかった。
きっちりと着こなした冬服のセーラー服、その胸元には学校指定のリボン。すらりと伸びた足には黒いハイソックス。
そして銀縁の眼鏡の奥にある整った涼しげな瞳が、リビングの中をゆっくりと見渡し——そして、俺の姿をとらえた瞬間、ピタリと止まった。
「…………っ」
神崎瑠璃の息が、わずかに詰まったのが分かった。
彼女はゆっくりと歩を進め、俺の目の前までやってくると、その完璧な顔をさらに赤らめながら、目を丸くした。
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「おはよう、美羽さん……。その、髪型……すごく、似合ってる。昨日はポニーテールだったけど、今日はハーフアップなんだね……とっても、可愛い」
昨日告白されたばかりの相手から、至近距離でそんな直球の褒め言葉を浴びせられ、俺の顔面の温度は一気に沸点へと達した。
やばい、顔が赤い。絶対に変に照れてる女子みたいになってる。いや、今の俺は正真正銘の女子なんだけどさ!
「お、おはよう、神崎さん……! ええと、その、お迎えありがとう……わざわざ待たせちゃってごめんね!」
あ、やっちまった。声がちょっと低くなった。
慌ててトーンを上げようと「ひゃいっ!」みたいな変な裏声を絞り出すと、神崎さんはなぜか愛おしそうに目を細め、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「ううん、全然待ってないよ。むしろ、こうして朝から美羽さんと一緒に登校できるなんて……私、夢みたいで、ずっと胸がドキドキしっぱなしなの」
(ドキドキしてるのはこっちだよ!!!)
心の底から絶叫しながら、俺は背後で母と姉が「きゃあ! 青春! 尊い!」と無言でガッツポーズをしている気配を背中に受け止めた。
こうして、アメリカへ行ったことになっている「元・俺」の留守を預かる美少女・白石美羽としての、波乱万丈すぎる二日目の朝が幕を開けたのだった。