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鏡の中に立っていたのは、しとやかな訪問着に身を包んだ、誰もが息をのむような25歳の絶世の美女だった。
……いや、誰だこの綺麗なお姉さん!? ワシ(63歳・独身・元ブサイク)なんだが!?
定年退職を間近に控えたある日、俺の身に降りかかった天変地異。
通称『TSF病』――正式名称『進行性塩基配列置換型体質変異症候群』。
要するに、突然DNAが書き換わって性別も年齢も容姿すらも根本から変貌してしまうという、現代医学も匙を投げる謎の奇病である。
「彼女いない歴=年齢」を63年間ストレートで更新し続けていた冴えないおじさんは、ある朝目覚めると、天涯孤独のハイスペック美女へと生まれ変わっていた。
国は公的な混乱を防ぐために新しい戸籍と「地方から上京してきた良家の令嬢」という完璧なカバーストーリーを迅速に手配してくれた。
病院での退院前プログラムとして「女性としての正しい歩き方と座り方講座」という謎の集中レクチャーを叩き込まれ、用意された職場は市役所の臨時職員。
これまでの質素な独身生活でコツコツ貯め込んだ貯金も十分にあるため、一人で静かに暮らす分には何一つ困らないはずだったのだ。
それなのに。
「……なんでワシが、高級料亭でお見合いをしなきゃならんのだ……」
帯で締め上げられた胸元を押し押さえながら、姿見に映るあまりに美しすぎる自分の和装姿に眩暈を覚える。
担当の世話焼きな公務員が、「せっかくの若さと美貌を無駄にしてはいけません!」と親切心100%で良縁を持ってきてしまったのである。
断り切れなかった自分の気弱さが恨めしい。
中身は枯れ果てた63歳の元おっさん。
外見は男たちの視線を独占する25歳の大和撫子。
「よし……とりあえず、ボロが出ないように酒だけは控えるぞ……!」
冷や汗で脇を濡らしながら、私は静かにお見合い会場の暖簾をくぐった。
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静々とした足取りで高級料亭の個室に通されると、そこに座っていたのは――少女漫画からそのまま飛び出してきたような超絶イケメンだった。
「初めまして。県庁で政策企画を担当しております、桐生と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
スッと背筋の伸びた仕立ての良いスーツ姿、爽やかな笑顔、そして溢れ出る知性。
聞けば若干三十歳にして県庁の将来を嘱望されるエリートキャリアだという。……おいおい冗談だろ、こんなハイスペック男子、市役所の臨時職員(中身:63歳の元・冴えないおじさん)が対峙していい器じゃない。
「ご両親を早くに亡くされ、天涯孤独の身だと伺いました。……これまで一人で、どれほど大変な思いをされてきたか。私でよければ、これからのあなたを支える存在になりたいと思っています」
桐生の瞳には、深い同情と――それ以上に熱っぽい愛慕の光が宿っていた。
国が用意した「悲劇の孤児」というカバーストーリーを完璧に信じ込んでいるらしい。
当然だ。
目の前に座るしとやかな和装美女の正体が、数ヶ月前まで加齢臭と戦っていた孤独な定年前のオッサンだとは夢にも思っていないのだから。
(ちょっと待て! 騙すつもりはないんだが!? というかワシの元職場の上位機関のキャリア様じゃないか! 恐れ多すぎて胃に穴が開きそうなんだが!?)
しかし、長年の公務員生活で叩き込まれた「偉い人の前ではとりあえず微笑んで頷く」という習性が悲しくも発動してしまう。
内面のパニックとは裏腹に、私の身体は完璧な大和撫子の微笑みを浮かべていた。
「お優しいのですね、桐生さん。私のような者には、あまりに勿体ないお言葉です」
可憐に伏せられた長い睫毛と、少し恥じらうような声。
自分で出しておいてなんだが、あざとすぎるだろこの身体!
「謙遜なさらないでください。……正直に申し上げますと、お写真を拝見した時から、そして今お会いして、あなたの美しさに完全に心を奪われています」
直球すぎる情熱的な殺し文句に、内なる63歳おじさんが「ひえっ」と情けない悲鳴を上げる。
哀しいかな、完璧な女性体質へと変容した身体は、超絶イケメンにまっすぐ見つめられるだけで鼓動が跳ね上がってしまうのだ。
(アカン!中身がおじさんだとバレたら国家機密レベルの修羅場になる!でも、彼女いない歴63年の枯れ果てた心に、イケメンの猛アタックが容赦なく刺さる!?)
元男のプライドと、乙女の身体の生理現象、そして勘違いしたキャリアイケメンの怒涛の求愛。
波乱に満ちすぎた狂乱のお見合いが、いま幕を開けたのだった。
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料亭の個室に漂う静寂の中、私は腹を括った。このまま桐生様の熱視線に押されていては、あっという間に外堀を埋められてしまう。
(そうだ、ワシには長年の人生経験がある! 自分の欠点を正直に暴露して、相手から「申し訳ないが……」とお断りさせれば穏便に済むはずだ!)
私は意を決し、しとやかに扇子を膝の上に置いた。
「桐生さん……大変ありがたいお言葉ですが、私には欠点ばかりございます。例えば……私、料理が全くできませんの。出されるものは何でも食べますが、自分で作ると……その、男物のガッツリとした大衆食堂のような味付けにしかなりませんのよ」
男一人暮らしで半世紀鍛え上げた、茶色くて濃い男飯しか作れないという致命的なデメリット。これで育ちの良いキャリア様なら引くはずだ。
「……素晴らしい!」
桐生さんはパッと目を輝かせ、膝を乗り出してきた。
「素晴らしいご趣味です! 私は仕事柄、接待や外食続きで繊細な味付けに少し疲れておりましてね。家庭ではガツンとスタミナのつく力強い料理が恋しかったのです! それに、料理が得意でないなら私が腕を振るう楽しみができます。あなたには美味しいものを食べて笑顔になっていただきたい」
(えぇ!? 男飯が大好物で、しかも料理男子なのかこのイケメン!?)
焦った私は、間髪入れずに次のカードを切った。
「で、ですが! 私、家事全般が大雑把で不器用なのです! 掃除も『埃で死ぬことはない』と妥協してしまいますし、休日は一日中家から出ず、ゴロゴロとジャージ姿で過ごすのが大好きな無精者で……」
「なんと……! まさに理想のパートナーだ……」
桐生様は深く感動したように胸の手を当てた。
「私は完璧主義な性格ゆえ、自宅でも肩の力が抜けず疲弊することが多いのです。しかし、あなたとなら肩肘を張らず、本当の自分をさらけ出してリラックスできる。休日に二人でパジャマのままダラダラと過ごす……そんな温かい家庭こそ、私が長年追い求めていた癒やしの空間です!」
「つ、ついでに言えば! 私、かなりお酒が強くて、嗜む程度では済みませんの! 居酒屋の赤提灯が似合うような飲み方をしてしまいますし、かわいらしく酔い潰れることもできません……!」
元おっさんの肝臓と酒の強さを全力でアピールしてみる。
「……奇跡だ。あなたはどこまで私を惹きつければ気が済むのですか」
桐生様はうっとりと熱い視線を投げかけてきた。
「私は酒に滅法強いのですが、周りの女性は遠慮してしまって……。あなたとなら朝まで対等に深酒を楽しめる! 趣味を共有できる最高の晩酌パートナーまで兼ね備えているなんて、やはり運命の女性だ!」
何を言っても全て「都合の良いポジティブ変換」で返されてしまう。
63年間の孤独とズボラが生んだデメリットが、桐生様フィルターを通すと「飾らない最高の癒やし系美女」へと昇華されていくのだ。
「……あ、あの……桐生さん?」
「こんなに飾らず、自分の弱みを真っ直ぐに明かしてくれる素直な女性に会ったのは初めてです。……お願いです、私と正式にお付き合いしてください!」
ガバッと目の前で頭を下げられ、私は完全に詰んだことを悟った。
(ダメだ!ワシの人生経験(おっさんスペック)が、全部このイケメンのツボに激刺さりしておる!!)
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「それでは、私はこれにて。あとは若いお二人でごゆっくり」
仲人の老婦人が絶妙な笑みを残し、静かに障子を閉めた。
(待ってくれ! 見捨てないでくれ仲人さん! 『若いお二人』の片方は63歳の定年直前おっさんなんだ!!)
心の中で必死に叫ぶも、パタンと閉まった障子は二度と開かない。
個室に残されたのは、情熱的な瞳で私を見つめるハイスペック・キャリアイケメンの桐生様と、帯で胃袋を締め上げられた元・冴えないおじさんの私だけ。
静寂が室内に満ち、桐生様のカチャリと置いた湯呑みの音すら心臓に響く。
「……二人きりになれましたね」
桐生様が、少し声を低くして微笑む。
その破壊力抜群のスマイルに、25歳女子の身体が勝手にキュンと反応してしまい、私は慌てて自分の太ももを抓った。惑わされるなワシ! 相手は息子と言ってもおかしくない年齢なんだぞ!
「あの、桐生様……私、先ほど申し上げた通り、本当に至らない点ばかりでして……」
「謙遜はいりませんと言ったでしょう? 私は、あなたのその飾らないお人柄に心底惚れ込んだのです」
桐生様はすっと身を乗り出すと、テーブルの上に置かれた私の手に、そっと自分の手を重ねてきた。
温かい。そして、男らしくて大きい手だ。
(ひやぁぁぁぁぁっ!? 手! 手を握られたぁぁぁ!?)
「彼女いない歴=年齢(63年)」の人生において、こんなイケメンに優しく手を握られた経験など一度たりともない。
脳の処理速度が限界を突破し、私の顔は一瞬で茹で上がったように真っ赤になった。
「っ……あ、あの、桐生様! 早急すぎますっ!」
「す、すみません! あまりの可愛らしさに、つい……」
真っ赤になって手を引っ込めた私を見て、桐生様は申し訳なさそうに手を引いたが、その瞳はさらに怪しい熱を帯びていた。
「(かわ……可愛らしくだと……!? 63歳のおじさんの照れ隠しだぞ!? デバフにしかならんはずの照れ顔が、この身体だと最高級の萌え要素に変換されておる……っ!)」
恐るべきはTSF病(と、国が施した完璧な容姿バフ)。
どんなに中身がおっさん挙動をしようとも、フィルターを通せば「奥ゆかしくてピュアなウブ美女」にしか見えないのだ。
「……実は私、これまで仕事一筋でして。女性とお付き合いした経験も少なく、どうアプローチしていいか分からず焦ってしまいました」
頭を掻きながら照れくさそうに笑う桐生様。
(嘘つけ! その顔面で経験少ないわけないだろ!……あ、でも県庁のガチキャリアなら勉強と仕事漬けだった可能性もあるのか……?)
「ですが、今日あなたとお会いして確信しました。私は、あなたとならどんな困難も乗り越えられる。……私と、結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」
逃げ場のない真剣なストレートプロポーズ。
元男のプライドが「断れ!」と叫ぶ一方で、63年間誰にも求められなかった孤独な魂と、乙女の身体が「はい」と言いそうになる恐怖。
(アカン……! このままじゃワシ、県庁のエリートキャリア様の『理想のお嫁さん』として外堀を完封されてまう――!!)
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「連絡先、教えていただけますか?」
差し出されたスマートフォンの画面。断れる雰囲気など微塵もなく、私はプルプルと震える指で自分のLINE IDを入力してしまった。
「桐生様、ではなく……これからは『桐生さん』と呼んでくださいね」
「あ、はい……桐生、さん」
可憐にうつむく私の姿に、桐生さんは満足そうに目を細めていた。
ほうほうの体で料亭を後にした私は、その足で予約していた美容室へと駆け込んだ。
個室の着付け室で、窮屈だった訪問着の帯を解いてもらう。
「はぁぁぁぁっ! 苦しかった!いろいろと。」
帯が緩んだ瞬間、深々と息を吐き出す。
美容師さんに「お見合い、お疲れ様でした。すごくお似合いでしたよ」と微笑まれ、生返事をしながら用意してきた私服――ダボッとしたスウェットとズボンに着替えた。
やっぱりコレだ。
おっさんの身体に染みついたラクな格好こそが一番落ち着く。
しかし、鏡に映ったのは、ダボダボの着古したスウェットを着ていても隠しきれない、華奢な肩ラインと透き通るような肌をした25歳美女の姿だった。
「何着ても誤魔化せんな、この身体……」
ため息をつきながら、私は小さなアパートの自室へと帰宅した。
一人暮らしの六畳一間。
パイプベッドにバタリと倒れ込み、天井を見上げる。
静まり返った部屋の中で、昼間の出来事が一気に脳裏に蘇ってきた。
(連絡先、交換してもうた。しかも桐生『さん』って呼ぶ約束まで)
思い出すだけで、カァッと顔が熱くなる。
大きくて温かかった桐生さんの手。
直視できないほどの超絶スマイル。耳元で囁かれた情熱的な言葉の数々。
(待て待て待て! なんでワシがこんな動揺しとるんだ!? 中身は63歳のオッサンだぞ!?)
胸の上に手を当てると、ドクドクと恐ろしい速さで脈打っていた。
TSF病で書き換えられた25歳女性の身体は、あまりにも素直だった。
63年間、誰からも男として扱われず、誰の恋人にもなれなかった枯れ果てた魂に、あのハイスペックイケメンからの怒涛の情熱が容赦なく突き刺さっているのだ。
スマホが『ピコン』と鳴った。
恐る恐る画面を見ると、桐生さんからのLINEだった。
『今日はありがとうございました。無事に家に着きましたか? 次のお休み、二人でゆっくりデートしませんか?』
「ひえっ……!」
スマホをベッドの上に放り投げる。
頭の中で、最悪で最高に恐ろしいシミュレーションが勝手に暴走を始めた。
このままデートを重ねたらどうなる?
当然、手を繋ぐだろう。
そして、あの綺麗な顔が急接近してきて――キスされる?
それどころか、その先……あの桐生さんに、この身体を抱かれてしまうのか!?
「無理無理無理無理!! 男同士……いや元男とイケメン!? どんな顔して抱かれればええんじゃワシはーーーっ!!」
ベッドの上で悶絶しながら身をよじる。
だが、胸の奥でキュンと疼く甘い痛みと、身体の奥から沸き立つような火照りは、どうしても消えてくれなかった。
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嵐のような週末が明け、憂鬱な月曜日の朝。私――国から与えられた新しい戸籍上の名前、『相良陽菜(さがら ひな)』は、いつものように市役所の臨時職員用デスクに向かった。
「おはようございまーす……」
努めて大人しく挨拶をしたものの、どうにもフロアの空気がおかしい。
私が足を踏み入れた瞬間、そこかしこからヒソヒソという囁き声と、やたらと熱のこもった視線が突き刺さってくるのだ。
(な、なんだ? スウェット姿のまま出勤してしまったか!?)
自分の服装が規定通りのオフィスカジュアルであることを確認してホッとしたのも束の間、先輩の女性職員たちに両腕をガッチリとホールドされ、そのまま給湯室へと連行されてしまった。
「ちょっと陽菜ちゃん! 週末、お見合いしたって本当!?」
「えっ!?」
唐突な尋問に、内なる63歳の心臓が跳ね上がる。なぜバレているんだ。
「駅前の美容室で着付けしてる陽菜ちゃんを見たって人がいてね! 『女優が撮影の準備してるのかと思ったら、うちの相良さんだった!』ってもう大騒ぎよ!」
どうやら、お見合いの帰り道に私服に着替えに寄ったあの美容室で、職場の誰かにバッチリ目撃されていたらしい。世間が狭すぎる。
「で!? 相手はどんな人なの!? 写真とかある!?」
「やっぱりお金持ち!? イケメンだった!?」
目をキラキラ(というかギラギラ)させた女性陣からの、怒涛の質問攻めである。
元・孤独な定年前のおっさんに、高度な女子トークを華麗に捌くスキルなどあるはずもない。
「あ、ええっと……その、お相手は公務員の方で……顔は、まぁ……普通、というか……」
相手があの県庁勤務のエリートキャリア・桐生さんだなどと正直に言えば、市役所内が蜂の巣をつついたような大パニックになるのは火を見るより明らかだ。
私は冷や汗をダラダラと流しながら、なんとか当たり障りのない回答でその場を乗り切ろうと必死に愛想笑いを浮かべた。
しかし、陽菜の受難はそれだけでは終わらなかった。
昼休み。気疲れから逃れるようにして屋上のベンチで一人お茶を飲んでいると、背後から「あ、あの! 相良さん!」と切羽詰まった声が聞こえた。
振り返ると、隣の部署の若手男性職員が、悲壮な決意を顔に張り付けて立っていた。
「相良さん……! お見合いの話、聞きました。相良さんみたいな素敵な人が、いつか誰かのものになってしまうのは分かってたんですが……っ!」
「は、はい……?」
彼の手はギュッと固く握りしめられ、顔は真っ赤に染まっている。まさか。
「ダメ元で言います! そのお見合い、断ってください! 僕と……僕とお付き合いしてください!!」
直角に腰を折っての、文字通りの『愛の告白』だった。
(ひえぇぇぇぇぇっ!? こ、告白されたぁ!?)
彼女いない歴63年の人生において、ただの一度も経験したことのない『ガチの告白』。
それがまさか、市役所の給料で養ってやれそうな年齢の若い男から向けられる日が来ようとは。
「相良さんの、いつも控えめで優しい笑顔に、ずっと惹かれてました……! お願いします!」
「あ、あの、わ、私なんかにそんな……! ごめんなさい、お気持ちはすごく嬉しいんですけど、今はそういうの、考えられなくてっ!」
パニックのあまり完全に上ずった声で、私は必死に頭を下げて逃げ出した。
男の気持ちは痛いほどわかる。
わかるからこそ、中身が初老のオッサンである自分がこれ以上希望を持たせるのはあまりにも残酷だと思ったのだ。
給湯室の女子トークといい、若手職員の決死の告白といい、『相良陽菜』という絶世の美女のスペックが引き起こす旋風は、私の想像を遥かに超えていた。
(アカン、このままじゃ、ワシの平穏な老後(余生)が崩壊してしまう!)
トイレの個室に逃げ込み、鏡に映る息を切らした絶世の美女を見つめながら震える。
ポケットの中のスマートフォンには、昨夜からあの超絶イケメンキャリア・桐生さんからの『今朝はよく眠れましたか? 次お会いできる日が待ち遠しいです』という甘すぎるLINEが、未読のまま鎮座していた。
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午後の業務は、ただひたすらに淡々とこなした。
なにせ中身は、社会の荒波を長年揉まれてきた63歳の元ベテランである。
市役所の臨時職員として任された書類仕事など、目を瞑っていても終わるレベルだ。
若手職員の告白による動揺もすっかり薄れ、長年のサラリーマン魂を発揮して完璧かつ無心にタスクを処理していく。
「お先に失礼します」
そして迎えた午後5時15分。
終業のチャイムが鳴り終わるか終わらないかのタイミングで、私はスッと席を立ち上がった。
残業など絶対にしない。
家に帰ってジャージに着替え、冷えたビール(発泡酒)を飲むという至高のルーティンが私を待っているのだから。
しかし、足早に通用口へと向かった私の足は、ピタリと止まることになった。
「……ん?」
廊下の壁沿いに、なぜか見知らぬ男性職員が数人、等間隔で並んでいたのである。
皆一様にソワソワと落ち着きがなく、ネクタイを締め直したり、手のひらに人という字を書いて飲んだりしている。
よく見れば、税務課の若手、農林課の中堅、さらには市民課の爽やかスポーツマンまで、別部署の男たちばかりだ。
なんだこれ。
市役所内に人気のラーメン屋でもできたのか?
不思議に思って横を通り過ぎようとした瞬間、先頭に立っていた税務課の男が、ガバッと私の前に進み出た。
「さ、相良さん! お疲れ様です! あ、あのっ、お見合いの話、聞きました! もしよければ、僕と……っ!」
「次は俺です! 相良さん、ずっと前から見てました!」
「ちょっと待て、順番だろ! 相良さん、俺もっ!」
男たちが次々と身を乗り出し、私の前でわらわらとアピール合戦を始めた。
その異様な光景に、私の脳細胞が数秒フリーズする。
……順番?
まさかこの列、全員私に対する『告白待ちの列』だというのか!?
(高校生か!?!?)
内心で盛大にツッコミを入れた。
なんだその青春ラブコメみたいなシチュエーションは! 昭和のヤンキー漫画でも、もう少し慎みというものがあるぞ! お前ら立派な公務員だろうが、仕事終わりに何してくれちゃってんだ!
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どうやら、朝のお見合いの噂が全庁内に光の速さで広まった結果、「他の男(見合い相手)に取られる前に!」と血迷った男たちが、一斉に決起してしまったらしい。
絶世の美女(相良陽菜)の引力、恐るべし。というか大迷惑である。
しかし、ここでパニックになって逃げ出しては、余計に事を荒立てるかもしれない。
私は小さく深呼吸をすると、63年の人生で培ってきた『穏便に断りを入れる営業スマイル』を顔に張り付けた。
「私のために、わざわざお時間を割いていただき、本当にありがとうございます」
かわいい声で、深く、しとやかに一礼する。
それだけで、男たちの顔がパァァッと赤く染まった。
チョロい。
いや、この身体のバフが凄すぎるだけか。
「ですが……誠に申し訳ございません。今は新しい仕事に慣れることで精一杯でして、どなたかとお付き合いするという余裕が、私には全くないのです。本当に、ごめんなさい……」
一人ひとりの目を見つめ、眉を八の字に下げて、消え入りそうな声で丁寧に断りを入れていく。
相手のプライドを傷つけず、「あなたが悪いのではなく、私の都合なのです」と強調する、大人のクレーム対応(お断り編)である。
「そ、そんな……気にしないでください! こっちこそ急に困らせてすみません!」
「相良さんの真面目なところ、やっぱり素敵です……!」
「仕事、応援してますから!」
なぜかフラれた男たちが感動したように頷き、爽やかな顔で帰っていく。
中身のおっさん臭い対応すらも、「謙虚で健気な大和撫子」に自動変換されているらしい。
(よしっ! これでなんとか全員撃退したぞ!)
心の中でガッツポーズを決め、どっと押し寄せる疲労感と共に市役所を後にした。
だが、帰り道の私のスマホが、再び『ピコン』と鳴る。
画面には、県庁の超絶イケメンキャリア・桐生さんからのメッセージ。
『お疲れ様です。お仕事終わりましたか? もしよければ、今夜少しだけ、お電話でお声を聞けませんか?』
市役所の男たちを全員蹴散らしたというのに、本命(?)にして最強のラスボスの包囲網は、確実に私を追い詰めようとしていた。
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気がつけば、私の足は駅ビルの中にある華やかなランジェリーショップへと吸い込まれていた。
(な、なんでワシ、こんなフリフリでスケスケの布きれが並ぶ魔境に来てしまっとるんだ)
パステルカラーと魅惑的な黒レースがひしめき合う店内。
63年間の男人生において、絶対に立ち入ることのなかった女の園である。
しかし、私の右手は無意識のうちに、透けるようなワインレッドのセクシーなブラジャーをしっかりと握りしめていた。
理由は明白だ。
あのハイスペックイケメン・桐生さんからの『デートのお誘い』である。
(もしこのままデートに行って……あの熱烈なアプローチに流されて、万が一、いや億が一、ホテルなんてことになったら……。今穿いてるこの実用性重視の地味な綿パンツじゃ、ムードもクソもないのでは?)
待て待て待て! なにを想像しているんだワシは!
相手は男だぞ!? ワシも(元)男だ! なんで『抱かれる前提』で下着の心配をしてるんだ、このポンコツ脳みそは!
しかし、身体はすっかり乙女である。
イケメンに口説かれる恐怖と期待(?)で、無意識のうちに『勝負下着』を物色してしまっていたのだ。
「いらっしゃいませ! あら、お客様、そちらの商品気になりますか?」
「ひゃうっ!?」
不意に背後から声をかけられ、私は変な悲鳴を上げて飛び上がった。
振り返ると、完璧な笑顔を浮かべた可愛らしい女性店員が立っている。
「あっ、い、いえ! これはその……たまたま手が当たっただけでして……」
「ふふっ、触り心地いいですよね。そちら、今週入ったばかりの新作なんですよ。深みのあるワインレッドが、お客様の透き通るような白いお肌に絶対映えると思います!」
「そ、そうですか? いやでも、私にはこういう派手なのはちょっと……」
「そんなことありません! あ、もしかして、特別な日のための『勝負下着』をお探しですか?」
「しょ、勝負っ!?」
「はい! 近々、大切な方とのデートがあるとか?」
図星を突かれ、私の顔はボンッと音を立てそうなほど真っ赤に沸騰した。
25歳美女の全力の照れ顔は破壊力が凄まじく、女性店員でさえ「あっ……(可愛い……)」と一瞬言葉を失うほどだ。
「ち、違います! デートとか、そういうヨコシマな予定は一切なくてですね!」
「ヨコシマなんてとんでもない! 大好きな彼のために可愛い下着を選ぶのは、女の子の特権ですよ!」
店員さんは私のパニックを『初々しい乙女の恥じらい』と完全に勘違いし、グイグイと距離を詰めてきた。
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「お客様、すごくスタイルが良いですから、胸元に少し抜け感があるデザインの方が、谷間が綺麗に見えて彼氏さんもドキッとするはずです! こちらの黒レースの新作なんていかがですか? 大人っぽくて、でもリボンのワンポイントがすごくセクシーで……」
「セッ!? い、いや、こんな布の面積が少ないやつ、心もとなくて風邪ひきますって!」
「もう、冗談がお上手ですね! あっ、そうだ! お客様の雰囲気なら、こっちの純白のランジェリーも捨てがたいです。清楚に見えて、実はバックスタイルが編み上げになっていて……彼が後ろの紐を解く時に、すっごく盛り上がるデザインなんです!」
「ひもを、と、解く!?」
脳内に、ベッドの上であの桐生さんが、熱っぽい瞳で私の背中の紐に手をかける映像がフラッシュバックする。
(アカンっ! 鼻血出そう……じゃなくて、気絶しそう!! ワシの貞操(?)が大ピンチすぎる!!)
「あ、あの! や、やっぱり今日は帰ります! 私にはまだ早すぎ――」
「ささっ、見るだけじゃわかりませんから! ぜひ試着室へ! おサイズもきちんと測り直しましょうね! お客様、パッと見でもかなりお胸があるので、ちゃんと寄せて上げればもっと凄いことになりますよ!」
「えっ? いや、ちょ、ちょっとお姉さん!? 背中押さないで!」
「さあさあ、どうぞどうぞ! こちらの新作3点、全部お持ちしますからね!」
ベテラン店員の鮮やかな手口と怒涛のトークに圧倒され、私は完全に逃げ場を失った。
抵抗する間もなく試着室のカーテンの奥へと押し込まれ、元・63歳のおじさんは、イケメンに抱かれる(かもしれない)ための魅惑の勝負下着選びへと強制連行されてしまったのだった。
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試着室という名の密室で、ワシは完全に店員のお姉さんの着せ替え人形と化していた。
黒の透け透けレース、清楚な純白フリル、さらには謎の紐だらけの布きれまで。
次々とカーテン越しに渡される下着を身に着けては、「素敵ですぅー!」と褒めちぎられるという羞恥プレイの連続である。
63年間の人生で、これほど精神をすり減らした時間は他にない。
「お客様、最後はこちらです! 当店が誇る『サルート』の新作、アプリコットピンクのセットです! お客様の白いお肌に絶対似合いますから!」
渡されたのは、息を呑むほど美しい花の刺繍が施された、華やかで少し際どいピンク色のランジェリーだった。
値段のタグを見て一瞬目玉が飛び出そうになったが、もはや抗う気力もなく身に着ける。
「はーい、着られましたかー? それでは、最高にスタイルが良くなる『正しい下着の着け方』をレクチャーしますね! 失礼しまーす!」
「えっ? ちょ、ちょっと待っ――ひゃうっ!?」
断る間もなくカーテンがシャッと開き、満面の笑みを浮かべた店員さんが狭い試着室へと突入してきた。
「まずはショーツからです! ただ穿くだけじゃダメなんですよ。太ももと垂れ下がったお尻のお肉を、こうして……下から全部ショーツの中に持ち上げて収めるんです!」
「ひやぁぁぁぁっ!? お、お姉さん、手がっ、手がダイレクトにワシの尻にっ……!」
背後に回った店員さんの両手が、私の太ももの裏からお尻にかけてのお肉をガシッと掴み、グイッと上に向かって押し上げてショーツの中へ収納していく。
プロの容赦ない手つきに、元・初老のおっさんは変な声を出してビクンビクンと跳ねてしまう。
「はい、次はお胸ですね! 少し前かがみになってください。そうそう、その姿勢で……背中や脇に逃げてしまったお肉を、ぜーんぶ前のカップに掻き集めます! えいっ、えいっ!」
「ああっ!? ちょっ、そこ、脇の下……っ、胸ぐりぐりされてるぅぅぅ!?」
店員さんの手がブラジャーの横から滑り込み、背中から脇腹、そして胸の周りのお肉をこれでもかと強引にカップの中へと押し込んでいく。同性同士(向こうはそう思っている)とはいえ、他人にこんな胸の谷間を直接いじくり回されるなんて、心臓が爆発しそうだ。
「はいっ! ストラップの長さを調整して……完成です! お客様、鏡を見てみてください!」
ハァハァと息絶え絶えになりながら、私は恐る恐る試着室の姿見へと視線を向けた。
「……えっ?」
そこに映っていたのは、信じられないほどスタイルの良くなった自分の姿だった。
ただでさえTSF病の補正で完璧だったプロポーションが、高級ランジェリーとプロの補正テクニックによって暴力的なまでの色気を放っている。
お尻のお肉を収めたことでウエストからヒップへの曲線はくっきりと丸みを帯び、カップに掻き集められた胸は、今にも零れ落ちそうなほど深く見事な谷間を作り出していた。
ピンクの豪奢なレースが、上気して火照った白い肌をこの上なくエロティックに引き立てている。
「す、すごいです……! お客様、お胸のボリュームが全然違います! Eカップだと思ってましたけど、これ完全にFカップはありますよ! お尻のラインも完璧です!」
「これ……ワシ……?」
鏡の中の絶世の美女が、呆然と呟く。
こんな姿、自分が男だったら絶対に理性を吹き飛ばされる自信がある。
(アカン。これ、もしデートの勝負下着にして桐生さんに見つかりでもしたら……完全に『致してしまう』やつでは……!?)
「お客様、このサルートのセット、すっごくお似合いです! 彼氏さん、絶対にメロメロになりますよ!」
「か、買います……っ」
結局、私は店員さんの勢いと鏡の中の自分の姿に完全に気圧され、おっさんの財布から諭吉を数枚飛ばして、その最高級のピンクの勝負下着をお買い上げしてしまったのだった。