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落ちそう………
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視界に飛び込んできたのは、煌びやかなドレッサーのライトと、鏡に映る息をのむほど可憐な美少女の姿だった。
フリルが幾重にも重なった華やかなピンクのステージ衣装に、しなやかに背中を流れる黒髪、そして神秘的に輝く紫色の瞳。
どこからどう見ても、今をときめくトップアイドル――しかし俺の頭には、しがない男として生きてきた確かな記憶が残っていた。
満員電車に揺られ、疲れ果てて床についたはずの、あの泥のような日常だ。
だが混乱する意識を余所に、もう一つの膨大な記憶が脳裏に溢れ出してくる。激しいレッスンで流した汗の熱さ、何万人ものファンが叫ぶ歓声の振動、スポットライトを一身に浴びる震えるような高揚感。
歌の歌詞も、完璧なステップも、スタッフたちの顔すらも、すべて自分のこととして「分かって」しまうのだ。
「――私、本当にこの子になっちゃったのか……?」
胸元に手を当てると、衣装越しに小さく跳ねる鼓動が伝わってくる。
男だった俺の戸惑いと、アイドルである彼女のプロ意識が不思議なバランスで混ざり合い、胸の奥が熱くなった。
その時、控え室のドアが軽やかに叩かれる。
「本番5分前でーす! 準備はバッチリですか?」
モニターには、超満員の客席を埋め尽くす眩しいペンライトの海が映し出されていた。
男としての感覚を抱えながらも、俺の体は自然と完璧な営業スマイルを作り、ドレスの裾をキュッとつまんでみせる。
「はい、バッチリです! 行ってきます!」
鈴を転がすような自分の可愛らしい声に少し照れつつも、俺は高鳴る胸を抑えて、光り輝く夢のステージへと足を踏み出した。
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まばゆい光の束と、地鳴りのような歓声を全身で浴びながら、私はステージの中央へと躍り出た。
男だった頃の自分は、人前に立つだけで心臓が口から飛び出そうになるほどの極度のアがり症だったはずだ。
それなのに今、胸を打つ鼓動はどこまでも心地よく、全身の細胞がこの瞬間を歓喜しているのが分かる。
アイドルの身体と精神が、恐怖を期待へと塗り替えてくれていた。
曲が始まった瞬間、一切の迷いなく身体が動き出す。
記憶を辿るまでもなくステップは滑らかで、喉からは鈴を転がすような透明感のある歌声が伸びやかに響き渡る。
頭で考えるよりも早く、指先の角度一つひとつまでが可憐なパフォーマンスを紡ぎ出していった。
「あ、これ……完全にいける!」
圧倒的な身体感覚への信頼からふっと心の余裕が生まれると、男としての悪戯心がふいに顔を出した。
アップのカメラがぐっと自分に寄ってきた絶妙なタイミングで、予定にはなかったバッチリと決めたウィンクを繰り出してみる。
次の瞬間、ドーム全体を揺らすほどの黄色い悲鳴と地鳴りのような歓声が爆発した。
モニターに映し出された己の破壊的な可愛さに、自分自身でさえ一瞬クラッとしそうになりながら、私は満足気な笑みを浮かべて次のステップへと軽やかに飛び出した。
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怒涛の本編が終わり、万雷の拍手と歓声を背に受けながら舞台袖へと引っ込むと、待機していたマネージャーが興奮で顔を真っ赤にして駆け寄ってきた。
「凄かったぞ! 特にサビのアドリブのウィンク、SNSのトレンドも配信のコメント欄も大爆発だ! 最高のファンサだよ!」
「ちょっとー! あんな可愛いアドリブ、リハーサルで聞いてないんだけど!? ずるい!」
駆け寄ってきたメンバーの少女たちが、汗ばんだ顔に弾けるような笑顔を浮かべて私の肩を揺さぶる。
男だった頃なら可愛い女の子たちにこんな至近距離で囲まれたらパニックになるところだが、今の私には彼女たちの誇らしげで愛おしい感情が痛いほど伝わってきた。
同じステージを駆け抜けてきた仲間としての絆が、胸の奥を温かく満たしていく。
その時、ドーム全体を揺らすほどの「アンコール!」のコールが、楽屋裏にまで雷鳴のように響き渡ってきた。会場の全員が、私たちの登場を今か今かと熱望している。
タオルで汗を拭い、アンコール用のライブTシャツの裾をキュッと結んで素早く衣装を整える。
鏡に映る自分の表情は、かつての冴えない男の面影など微塵もなく、誰よりも生き生きと輝いていた。
「みんな、待たせちゃってるね。最後の一曲まで、もっと夢中にさせちゃおう!」
掛け声とともに舞台袖で円陣を組み、気合の一声を上げて再び光の満ちるステージへ躍り出た。
イントロが流れた瞬間、歓声のボルテージは最高潮に達した。
ステージの端から端まで軽やかに駆け抜け、スタンドの奥まで届くように大きく手を振る。男の時には決して知ることのなかった、誰かの希望になれる圧倒的な快感と喜び。
「みんなー! 今日は最高の時間をありがとう! 大好きだよー!」
満面の笑みで叫びながら手をかざすと、視界いっぱいに広がるペンライトの海が一段と激しく揺れた。
スポットライトを一身に浴びながら、私はこのアイドルとして生きる新たな人生を、心から楽しんでいた。
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ライブの熱気がまだ肌に残る楽屋裏の更衣室。
重い防音扉が閉まった瞬間、緊張から解放されたメンバーたちの歓声が室内に満ちた。
所属する5人組アイドルグループ『シャイニー☆プリズム』。そして、そのセンターを務める私の名前は『白咲 華(しらさき はな)』だ。
「はぁ〜っ、今日のライブも最高の盛り上がりだったね!」 「汗で衣装がベタベタ〜! 早く着替えよ!」
そう言いながら、メンバーたちが躊躇なくステージ衣装のファスナーを下ろし始めた。
次の瞬間、私の視界に広がったのは、色とりどりの可憐な下着に包まれた女の子たちの素肌だった。
汗ばんだ鎖骨やしなやかなウエスト、柔らかそうな太ももが、遠慮なく目の前に晒される。
中には「汗かいちゃったから着替えなきゃ」と、下着すら躊躇なく脱ぎ捨てて新しい下着に付け替えているメンバーまでいる始末だ。
(ちょ、ちょっと待て! 目のやり場がなさすぎるだろ……!?)
男だった頃の記憶と倫理観が「見ちゃダメだ!」と激しい警告音を鳴らし、慌てて視線を天井や壁のポスターへとそらす。
だが、脳が理解する前に男としての本能が抗えず、チラリ、チラリと視線が泳いでしまう。
だが同時に、華としての記憶が『これはライブ後のいつもの日常だから、変に意識する方がおかしい』と冷静に囁いてくるのだ。
理性と本能とアイドルとしての常識が頭の中で大激突を起こし、私の顔はあっという間に真っ赤に染まっていった。
「あれ、華ちゃん? 顔赤くない? 熱でも出ちゃった?」 「えっ!? あ、ううん! ライブの熱気がまだ冷めてないだけだから大丈夫!」
かろうじて変声期前の可愛らしい声で誤魔化すと、私もパニックになりそうな心を必死に抑えながら着替えを始めた。
華の身体の記憶に従って、背中のファスナーに手を伸ばす。
スルリと滑らかな手つきで重厚なピンクの衣装を脱ぎ捨てると、鏡に映ったのは、繊細なレースの下着に包まれた自分自身の華奢な身体だった。
自分で自分の身体を見ているだけなのに、男の記憶のせいで背筋にゾクゾクとした甘い痺れが走る。
「……早く私服着よう、正気が保てなくなる……!」
衣装ハンガーに掛けられていたシンプルな淡いブルーのキャミソールワンピースに急いで袖を通す。
フリルで飾られた煌びやかな衣装とは対照的に、ストンとしたシルエットのワンピースは、華の透明感あふれる美しさを引き立てていた。清楚で大人っぽいその姿に、思わず自分自身で少し見惚れてしまう。
着替えを終えて一息ついた私に、メンバーの一人が笑顔で声をかけてきた。
「華ちゃん、今日のライブの反省会兼打ち上げ、事務所の車で行くよ〜! 準備できた?」
男としての戸惑いを抱えながらも、私は自然と可憐な笑みを浮かべて頷いた。
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事務所の大型ワゴン車に乗り込むと、私は「ふぅ……ちょっと疲れちゃったかも」と小さく息をつき、後部座席の窓際に深く身体を沈めた。そのままそっと瞼を閉じ、規則正しい寝息を立てるフリ――狸寝入りを決め込むことにする。
車内には、ライブを終えたばかりのメンバーたちの興奮冷めやらぬ話し声や、かすかなシートベルトの擦れる音が響いている。
だが、瞼の裏に落ちる街灯の光を感じながら、私は意識を自分の内側へと深く潜らせていった。
頭の中をぐるぐると巡る、あまりにも現実離れした状況を一度落ち着いて整理する必要があったからだ。
(まず……俺は間違いなく、どこにでもいる普通の「男」だった。)
泥のように重い体を引きずって満員電車に揺られ、深夜まで仕事に追われ、自室のベッドで倒れ込むように眠りについた、あの無機質な日常。
その記憶は今でもハッキリと頭に残っている。自分の名前も、好きだった食べ物も、これまで歩んできた人生の軌跡も失われてはいない。
だがそれと同時に、この身体――『シャイニー☆プリズム』の絶対的センター・白咲華としての記憶も、完全に脳と身体に刻み込まれているのだ。
小さな頃から歌とダンスが好きだったこと。
厳しいオーディションを勝ち抜いた日の嬉し泣き。
仲間たちとぶつかり合いながら汗を流したレッスン室の匂い。
そして今日、何万人ものペンライトの海を前に感じた、胸が張り裂けそうなほどの圧倒的な快感。
そのどれもが決して作り物ではなく、紛れもなく「私が体験してきた過去」として血の通った温かさを持っている。
(男だった俺の意識と、トップアイドルである華の記憶……この二つがグラデーションみたいに混ざり合ってるんだ。)
だからこそ、ステージの上では何の迷いもなく完璧なパフォーマンスができた。
男の時には重いトラウマだった人前での極度の緊張感も、華の身体が持つ経験値と自信が見事に上書きしてくれたのだ。
しかし、問題は「ライブが終わった後」だった。
思い出すだけで、服を着ていても顔から火が出そうになる。先ほどの更衣室での光景だ。
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華としての記憶は『いつもの楽屋の日常』だと告げているのに、男としての理性が『女の子たちの生々しい下着姿を見るな!』と絶叫する。
汗ばんだ素肌の柔らかさ、部屋に充満する甘い香水と汗の匂い、更には自分自身がレースの下着一枚になった時のゾクゾクするような背徳感。
華の身体のラインに触れるたび、男としての感情と女としての身体の反応がぶつかり合い、頭がどうにかなりそうだった。
(もしこれから、お風呂に入ったり、もっとプライベートな時間を過ごすことになったら俺はどうなっちゃうんだ?)
パニックになりかける胸の動悸を必死に抑えていると、すぐ隣からひそひそと囁き合うメンバーたちの優しい声が耳に届いた。
「華ちゃん、寝ちゃったみたいだね。今日のライブ、ずっと先頭でみんなを引っ張ってくれてたもん……相当疲れてたんだよ」
「うん。最後のアドリブのウィンクもすごかったよね。私たちももっと頑張らなきゃ。ブランケット、かけてあげよっか」
そっと肩の上に、温かいブランケットが掛けられる。
柔らかいファブリックの感触と、メンバーの心地よい香りが私の鼻腔をくすぐった。
彼女たちは、私が中身の変わってしまった「偽者」だなんて微塵も思っていない。
心から私を信頼し、仲間として愛してくれている。
その温もりが、男としての罪悪感を優しく包み込んでいくようだった。
(……逃げるわけにはいかないな。)
男としての記憶を持ちながらも、私はもう、この可憐な少女『白咲華』として確かに生きている。
ステージの上で見たあの景色と、ファンからの歓声、そして隣で笑ってくれる仲間たちの存在は、何物にも代えがたい「本物」だ。
男だった頃の冴えない人生に未練はない。
これからは、男としての客観的な視線や機転を密かな武器にしながら、この『白咲華』としてアイドル界の頂点を目指して全力で駆け抜けていく――。
腹を括った瞬間、胸の奥につかえていた迷いがすっと消えていくのが分かった。
車が滑らかに加速し、心地よい振動が身体を揺らす。
私はまだ狸寝振りを続けたまま、静かに訪れる深い安らぎの中に意識を委ねていった。
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目が覚めると、車はすでに事務所の地下駐車場に滑り込んでいた。
「華ちゃん、着いたよ〜。大丈夫? 起きられる?」
隣に座るメンバーが優しく肩を揺すってくれる。
私はゆっくりと目を開け、「ん……あ、ごめんね、うとうとしちゃってた」と少し目をこすりながら、アイドル・白咲華としてのあざとい可憐さを自然と漂わせて微笑んだ。
車を降り、エレベーターで事務所の上層階にあるミーティングルームへと向かう。
打ち上げと言っても、明日も早朝からスケジュールが詰まっているため、今夜は事務所が用意してくれた特上のお寿司とケータリングで軽く乾杯をする小一時間ほどのささやかな宴だ。
「みんな、本日の単独ドームライブ、本当にお疲れ様!」
マネージャーの音頭で缶ジュースを掲げ、みんなで乾杯する。
男だった頃なら居酒屋でビールを煽っていたところだが、今の私の手に握られているのは可愛らしい桃のシュワシュワしたサイダーだ。
一口飲むと、心地よい炭酸と甘みが疲れた身体に染み渡っていく。
「それにしても華、今日のライブはキレッキレだったな!」
ケータリングのから揚げを頬張りながら、マネージャーが感心したように言う。
「特にあのアドリブのウィンク! SNSで『#華ちゃんの破壊力』がトレンド1位になってるぞ。配信のアーカイブ動画も、あそこだけ再生数がエグいことになってる」
「えへへ、本当ですか? なんだか急に『今だ!』って閃いちゃって」
照れたように笑ってみせるが、心の中では(男としてのサービス精神と客観的なカメラ目線が功を奏したな……!)と密かにガッツポーズを決める。
男だった頃の「どんなファンサをされたら落ちるか」というオタク心理の知識が、アイドルの自分と完璧に噛み合っているのだ。
「華ちゃん、はい! 大好きなサーモンだよ!」
メンバーの一人が嬉しそうにお皿を渡してくれる。
華の記憶を辿ると、確かに彼女の大好物はサーモンだった。
一口食べると脂が乗っていて絶品だ。
「ありがと〜! 美味しい!」
和気あいあいと盛り上がるメンバーたちの笑顔を眺めながら、私は寿司をつまむ。
更衣室ではあんなにドキドキしてパニックになりそうだったのに、こうして私服で楽しくおしゃべりしていると、彼女たちが心から可愛らしく、そして守るべき大切な仲間に思えてくる。
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男としての記憶と、華としての絆。
その両方が今、私の中で違和感なく溶け合い始めていた。
そんな温かい雰囲気の中、から揚げを口に運んでいたマネージャーが「あ、そうだ」と思い出したようにパンと手を打った。
「華、ちょっと明後日のスケジュールなんだけどさ……例の『週刊グラビア』の巻頭グラビア撮影、衣装の最終チェックが届いたぞ。今回は初の大規模水着ロケだ」
「――ッ!?」
飲んでいた桃サイダーが変なところに入りそうになり、私は激しくむせた。
「ゲホッ! ゲホッ……み、水着……ですか!?」
「なんだよ、自分でずっとやりたいって言ってた企画じゃないか。ハワイ風のスタジオで、ビキニとワンピース水着の2パターンだぞ。体型管理もバッチリだし、今の華なら絶対に伝説のグラビアになる!」
男の記憶が脳内で警報を大音量で鳴らし始める。
水着。
しかもビキニ。
更衣室の下着姿でさえ生きた心地がしなかったのに、今度はカメラの前で水着姿になり、それを全国の男たちに見られるというのか――!?
(ま、待て待て待て! 華としては超ノリノリだった仕事かもしれないけど、中身が男の俺にはハードルが高すぎるだろ……!?)
「華ちゃん、どうかしたの? すごく顔が青いけど……」
心配そうに覗き込んでくるメンバーたちに対し、私はひきつった笑みを浮かべることしかできなかった。
「大、大丈夫! 楽しみだなぁって! うん、頑張るね……!」
アイドル・白咲華としての試練は、まだ始まったばかりだった。
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打ち上げが終わり、所属事務所の手配した送迎車で都内のタワーマンションへと送り届けられた。
オートロックを二重三重に抜け、防犯カメラが張り巡らされたセキュリティ万全の自宅へ足を踏み入れると、ようやく一人きりの空間が訪れた。
「はぁ、疲れた……」
玄関で靴を脱ぎ捨てるように脱ぎ、広いリビングの高級そうなソファに倒れ込む。
全身を襲う猛烈な疲労感。ドームライブの激しいパフォーマンスによる筋肉痛と、一日中「白咲華」として張り詰めていた神経の緊張が一気に押し寄せてきて、身体が鉛のように重い。
今すぐにでもベッドに潜り込んで眠りにつきたい衝動に駆られる。
だが――絶対に今、確かめなければならないことがあった。
私は重い身体をどうにか起こし、テーブルの上に置いてあった華のスマートフォンを手に取った。薄型の画面に指を走らせ、ブラウザアプリを立ち上げる。
「俺の……元の俺の名前を検索してみないと……」
男だった頃の自分の名前、住んでいた地域、勤めていた会社。
それらを検索ウィンドウに打ち込み、震える指で検索ボタンを押した。
――結果は『検索条件に一致する情報は見つかりませんでした』。
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「……嘘だろ?」
言葉を失い、さらに詳細なキーワードを加えて何度も何度も検索し直す。
SNSの個人アカウントや、かつて通っていた学校のデータベース、会社のホームページ。男だった頃の自分が確実に存在していた痕跡を、必死になって探し回った。
しかし、どれだけ画面をスクロールしても、元いた自分の情報は痕跡ひとつ残っていなかった。
「存在しない……? 単に男から女に変身しただけじゃなくて、俺がいた元の世界とは違う……自分が最初から存在しない世界線に飛ばされたのか……!?」
頭の中で冷や汗が吹き出す。
TS(性転換)したのか、あるいは並行世界のトップアイドルに魂だけが憑依したのか。
それとも、男だった頃の膨大な記憶そのものが、ただの精巧な幻覚や夢だったのか――?
さまざまな仮説と混乱がグルグルと脳裏を駆け巡り、思考の迷宮へと引きずり込まれていく。
(俺は一体誰なんだ……? 男だった俺は何だったんだ……?)
鏡に映る美しい少女の姿と、消えてしまった過去の自分の幻影。
深まる謎と現実感のなさ、そして怒涛の一日による極限の身体的疲労が重なり、視界が急速にグラグラと揺れ始めた。
ソファに深く沈み込んだまま、スマートフォンを握りしめる手に力が弱まっていく。
「だめだ……頭が……まわら……」
思考の糸がプツリと切れ、私は抗うすべもなく、深く重い眠りの底へと落ちていった。
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眩しい朝の光がカーテンの隙間から差し込み、私はゆっくりと目を覚ました。
「ん……あ……」
重い頭を持ち上げると、そこはリビングのソファの上だった。
昨夜、スマホを握りしめたまま寝落ちしてしまったらしい。
ふと自分の身体を見下ろすと、昨日の淡いブルーのワンピースを着たまま。
メイクも落とさず、シャワーすら浴びずに眠ってしまったことに気づく。
ドームライブで流した汗と昨日の疲労が残っていて、肌には不快な粘つきがあった。
「うぅ最悪。とにかくお風呂入らなきゃ……」
体を起こすと、少し頭がクラクラする。だが不思議なことに、どこにバスルームがあるのか、タオルやシャンプーがどこに収納されているのか、体が吸い寄せられるように自然と理解していた。
男だった頃の記憶と混乱しながらも、華としての「生活の記憶」が何ひとつ淀みなく脳内に浮かんでくるのだ。
まずは着替えを用意しようとウォークインクローゼットへ向かう。
ずらりと並んだ華やかな服の奥にある引き出しを開けると、そこには綺麗に整理された色とりどりの可憐な下着たちが収められていた。
「うっ……」
男の記憶が反射的に一瞬ドギマギするものの、指先は躊躇なく動き、さらりとした手触りの入イエローのブラジャーとショーツを迷いなくピックアップした。
まるで何千回も繰り返してきた日常の動作のように、自分の体型にぴったりの下着を自然と選び取れている。
そのままバスタオルを抱えて脱衣所へ向かい、服を脱いでバスルームの扉を開けた。
大きな鏡に映し出されたのは、昨日のメイクが少し崩れた、しかしどこからどう見ても完璧な美少女の裸体だった。
華奢な肩、薄いお腹、小さくも綺麗な形をした胸、すべすべとした白い太もも。
男だった頃の自分とは似ても似つかない、あまりにも洗練された身体。
(この身体で……シャワー浴びるの、本当に初めてなんだよな……)
男としての理性が強烈な緊張と背徳感を訴えてくるが、手は迷いなくシャワーのスイッチを押し、温度を調節していた。
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シャワーヘッドから温かいお湯が勢いよく噴き出し、頭上から全身を包み込んでいく。
「ふぁ、気持ちいい……」
思わず吐息が漏れた。
男の頃とは違う、繊細で敏感な皮膚の感覚。
温水が肌を滑り落ちる感触が、心地よい痺れとなって身体中に広がっていく。
ボディーソープのボトルを手に取り、泡立てネットでモコモコの泡を作る。
その動作も一切の迷いがない。
華が普段使っているフローラルで甘い香りの洗顔料とボディーソープの匂いがバスルームいっぱいに満ちていく。
手にたっぷりの泡を乗せ、自分の身体へと滑らせていく。
首筋から鎖骨へ、そして胸のふくらみ、小さなお腹、太ももへ――。
(自分で自分の身体洗ってるだけなのに、なんか凄くドキドキする……!)
指先が女性らしい柔らかい曲線に触れるたび、男としての意識が激しく跳ね上がる。
だが同時に、華の記憶が『ここもしっかり洗わないと肌荒れしちゃう』と冷静に指示を出してくるのだ。
パニックと慣れが奇妙に混ざり合いながら、胸やデリケートな部分まで丁寧に泡で洗い上げていく。
シャンプーで長い黒髪を洗い、トリートメントを馴染ませてから、最後にたっぷりの温水で全身を洗い流した。
シャワーを止め、鏡の曇りを手で拭う。
濡れた髪を肩に散らし、ほんのり熱で上気して頬を赤く染めた美少女がそこに立っていた。男だった頃の影などどこにもない、圧倒的な「女の子」の姿。
「ふぅ、なんとか無事に洗えた……」
バスタオルで全身の水気を拭き取り、さっき選んだイエローの下着に身を包む。
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ブラのホックを背中で止める感覚すら、手が自然と覚えていて完璧にこなせてしまった。
部屋着の柔らかいパジャマに袖を通すと、驚くほど身体が軽くなっていることに気づく。昨夜の疲労と混乱が、温かいシャワーと一緒に綺麗に洗い流されたようだった。
その時、リビングに置いたスマホが「ピコン!」と甲高い通知音を立てた。
液晶画面を見ると、マネージャーからのメッセージが表示されていた。
『華、おはよう! 昨日はゆっくり休めたか? 例の明後日の『週刊グラビア』の水着ロケ、ロケバスのピックアップ時間と詳しいスケジュールの共有だ。確認よろしく!』
鏡に映る濡れた髪の美少女――白咲華は、スマホ画面を見つめながらゴクリと唾を呑み込んだ。
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マネージャーからの通知画面を見つめながら、私はぽんぽんと画面をタップしてメッセージを入力した。
『おはようございます! 昨日は本当にありがとうございました!
スケジュール確認しましたっ!水着ロケ、とびっきり可愛く撮ってもらえるように気合入れて頑張りますっ!楽しみです♪』
アイドル・白咲華としての完璧な文面と可愛い絵文字。
男だった頃なら逆立ちしても送らないようなメッセージだが、華の記憶と指先の感覚が自然とこれを打ち込ませていた。
送信ボタンを押してから、「よし……これで返信はバッチリ」と小さく息をつく。
そのまま脱衣所のドレッサーへと向かい、モーニングルーティンを開始した。
髪をドライヤーで乾かしながら、華の肌ケアの手順を思い出す。化粧水を手に取り、優しく肌に押し込むようにパッティング。
続いて美容液、乳液と重ねていく。男だった頃は洗顔後にバシャバシャと安い化粧水を塗るくらいだったのに、指先が吸い付くようなもちもちの素肌に仕上がっていく快感に、少しクセになりそうな感覚を覚える。
「女の子のお手入れって、こんなに手間がかかるけど……なんか気持ちいいな」
スキンケアを終え、リビングに戻ったところでスマホが「ピコン!」と鳴った。
マネージャーからの返信だ。
『華、緊急連絡! 今日予定していたTVドラマの撮影なんだけど、ロケ先の天候不良とスタジオ調整で急遽【延期】になった!
ということで、今日はまるまるオフ(全休)だ! 昨日のドームライブの疲れもあるだろうし、家でゆっくり休んでくれ! 明日のグラビア準備だけよろしく!』
「え……オフ……!?」
思わず声が漏れた。ドームライブの翌日、分刻みのスケジュールで駆け回る覚悟をしていただけに、予想外のプレゼントに全身の力が抜けていく。
「やったぁぁぁ……! 休める……!」
男だった頃の「突然の有休獲得」のような歓喜が爆発する。
緊張の糸がほぐれた私は、せっかくの休日を優雅に過ごすべく、丁寧なモーニングルーティンを再開することにした。
まずはキッチンのエスプレッソマシンで香ばしいカフェラテを淹れる。
華の好みに合わせて少しの豆乳を混ぜたソイラテだ。
続いて冷蔵庫からアボカドと卵を取り出し、サクサクに焼いたトーストの上にのせて「アボカドトースト」を作る。
盛り付けまで洗練されてしまうのは、間違いなく華の女子力のおかげだ。
日当たりの良いリビングのテーブルに朝食を並べ、ふかふかのチェアに深々と腰かける。
マグカップから立ち上る湯気を眺めながら、香ばしいソイラテを一口。
「ふはぁ……幸せ……」
昨日のライブの熱狂、男だった記憶とアイドルとしての身体が混ざり合う戸惑い、そして更衣室でのパニック――怒涛の数時間が嘘のように、静かで穏やかな時間が流れていく。
焼きたてのトーストを頬張りながら、私は窓の外に広がる青空をゆったりと見上げた。
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優雅な朝食を終えた私は、「よし、せっかくのオフだし街へ出かけよう!」と立ち上がった。
目的地は――男のままだったら絶対に行けなかった、女の子だけの特別な場所。
でも、その前に大きな問題があった。
この1日半、アイドル・白咲華の記憶と身体に流されるまま、自然と可憐な振る舞いやスキンケアをこなしてしまっていた。
このままだと、俺という男の意識が完全に「華」という存在に飲み込まれて消えてしまうんじゃないか……そんな漠然とした恐怖が胸をよぎる。
(あかん、少しだけでも『男としての俺』を主張しておかないと、本当に完全に女の子になっちゃう……!)
抵抗を試みるべく、私はクローゼットと下着の引き出しに向かった。
華の記憶が「清楚で可愛い淡い色」を勧めようとするのを必死に抑え込み、男の趣味全開でコーディネートを選ぶことにした。
引き出しの奥をガサゴソと探り、見つけたのは黒のシックなレースの下着。
「男なら……やっぱりこういう大人っぽくてセクシーな黒下着が一押しだろ!」と、男目線の好みを100%反映させてチョイスする。
自分の身体に黒レースを身につける背徳感に顔が熱くなるが、「これは俺の趣味だ」と自分に言い聞かせた。
続いて服のチョイスだ。華が普段着るようなフリルやパステルカラーのワンピースは封印。
男の俺が好きだった「ストリート系のクールな女子の服装」を目指すことにした。
オーバーサイズの黒のブランドパーカー(ダボッとしたシルエットが男心をくすぐる)。
すっきりとしたスキニーデニム。
足元は歩きやすいスタイリッシュなスニーカー。
鏡の前に立つと、いつもの「王道可憐アイドル・白咲華」とはガラリと印象の違う、どこかボーイッシュでクールな美少女が完成していた。
ダボッとしたパーカーから覗く華奢な身体がかえって色っぽさを引き立ててしまっている気もするが、男の趣味を貫いたことで、少しだけ「俺」を取り戻したような満足感があった。
最後はバッチリと変装だ。
バケットハットを深めにかぶり、黒縁のメガネを装着。
さらにマスクをつければ、誰が見てもトップアイドルだとは気づかない完璧な変装の完成だ。
「よし、見た目はバッチリ!……で、男の俺じゃ絶対に入れなかった『女の子しか行けない場所』って言ったら……あそこか!?」
頭に浮かんだいくつかの候補に、思わずニヤリと胸が高鳴る。